塩倉丁

杜の都」・・・100年前の町名を辿る

 

「塩倉丁」(シグラチョウ)

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藩政時代、仙台城下の町々は本名の他に

俗称名がよく使われていた

 

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今の東一番丁に藩の塩倉と糠蔵とが建っていたので

大町から南、柳町までを塩倉(蔵)丁

大町から北を糠倉(蔵)丁と称した

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塩倉は今の大町五丁目

藤崎百貨店から前から南に下った

西側青葉通りの西北角辺りにあった

 

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糠蔵は東一番町玉沢横丁角

今の広瀬通の西北角辺りであった

寛文8・9年(1668~69)の仙台城下絵図には

御糠蔵と記載されている

 

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練習・・・3.11 荒浜

 

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杜の都」・・・100年前の町名を辿る

 

                  「荒浜」

 

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明日3月11日で東日本大震災から8年が経過した・・・

南小泉から霞目を経て約8km深沼街道を東進すると

旧七郷村の荒浜に達する、半農半漁の海岸集落で

太平洋に臨み貞山運河に沿っている

俗には深沼と称している集落は

荒浜は400年程以前までは荒涼たる不毛の地で

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慶長・元和の頃戦国武将たち越中・大学・但馬・掃部・土佐などが

難を避け入り込み土地を開墾し農業を始めた地

又網器などを作って細々と一集落をつくったりしながら生活

その後しだいに移民が集まり震災前の形になった

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荒浜の地名は文字通りこの海岸一帯は太平洋に直面し

常に波が荒々しく船着き場には適さない

荒浜の海岸に押し寄せる波浪の音が仙台市街にも聞こえたことは

東北学院で教鞭をとっていた島崎藤村も語っているほどである

 

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荒浜の別名、深沼の名は以前この付近には大沼・赤沼

北長沼・南長沼・川戸沼等大小の沼が点在し

それらの中に深沼と言われる沼があったことに

由来しているかもしれない 

そんな荒浜を先の東日本大震災では大津波が襲い

800世帯2,200人が住んでいた集落では186人が死亡

建物は全て流出し壊滅した集落

往時の町内の面影を今に残す遺構は貞山運河と墓地のみ・・・

墓地もすべて流され現在のものはすべて新しくしたもの・・・

旧荒浜小学校(当時91人の児童は全員無事だった)の震災遺構は

旧住民の帰還を待っているが・・・・・・居住危険区域になって

いまは居住出来ない地域になってしまった!!!

 

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